ご無沙汰しております、後編をお届けしたいと思います(遅筆でごめんなさい)
前編ではアメリカ側視点で作成された動画に対する海外の反応を見てきました。

英語版ということで、実際に戦った国の方もコメントされており、
その内容は偏った動画本編に引きずられる形で、
客観的とは とても言えないものが多いようでした。

前編の続きの前に、個人的に知りたかったので
同じ動画でも違う言語圏の場合はどう捉えられるのか?
海外の反応をより客観的に捉えて見たいと思います。

以下、イスラム圏向けの動画より

翻訳元の動画はこちらJapan's War In اشتراك اليابان بالحرب العالمية الثانية ترجمة فيصل كريم Color
(前回の英語版のアラビア字幕版です)


以下、この動画に対する海外の反応

この偉大な仕事を成し遂げたファイサル氏とアラーの神に感謝いたします。 アメリカ

■ re:あなたにも神の祝福がありますように。 クウェート

■ このドキュメンタリーを見れば、第二次世界大戦時に日本帝国が天然資源の豊富な東アジア諸国を侵略し、アメリカを攻撃しようとした理不尽な経緯がよく分かります。 同時に、広島・長崎に投下された原爆の悲劇も描かれています。もっとも、彼らの行為を正当化するには至りませんけどね。 クウェート


■ re:おいおい、これは白黒フィルムに着色して最近編集された動画だぜ。 1945年当時カラーフィルムなんて無かったんだよ。 分かってんのか?? クウェート

■ re:ええ、昔のカメラには色や明るさを認識する機能はありませんでしたからね。 動画に着色する技術がここ50年ほどの間に開発されたものだということくらい知ってますよ。 神に誓って断言します。 クウェート

■ re:え?これって1945年に撮影されたカラーフィルムなの??? マジ意味わかんねーんだけど。 どういう事なのか説明してくれねーか?? クウェート

■ re:簡単な話ですよ。 確かに当時はカラーフィルムでの撮影技術はありませんでしたが、保存されていたデータに最新の技術で着色を施したのです。 最近ではこのような動画はたくさん存在します。 驚くほどの事ではありません。 クウェート

■ re:解説どーも。 クウェート

■ 素晴らしい翻訳だ。 アメリカ

■ う~ん、勉強になるなぁ。 サウジアラビア

■ 私にとって真珠湾攻撃はとても奇異な事件だよ。 どうしてあれほどの軍事要塞が無防備だったんだろう。 アメリカは世界最強の軍事力と商業力を誇っていたし、戦争貿易で軍事経済を増加させることを切望していた。 これによって多くの利益を得たはずだ。 単なる偶然であるはずがない! きっと裏に何かあるな…。 ブラジル

こんなもの、単なる西洋人のプロパガンダじゃないか。 サウジアラビア

■ このフィルムをピックアップし、翻訳してくださったファイサル氏に感謝いたします。 しかし、この動画はアメリカのひどい偏見に満ちており、国際的中立性に欠けているせいでせっかくの翻訳が台無しになっているように感じました。  そこで私は、この時代の様子を描いた日本側のドキュメンタリーもお探しになってみることをご提案いたします。   現代の生活への現実的な影響も描かれているため、この時代の全容を正確に理解することが出来ると思うのです…。 私の助言が教授のお力になれたら光栄です。 重ね重ね、ファイサル氏の素晴らしきお仕事に感謝の意を表します。+2 サウジアラビア

■ re:コメントありがとうございます、アブドゥラさん。この世に完璧な中立などというものは存在しません。 大切なのは、国際紛争の原因を理解し、国境の違いを乗り越えるための知恵を得ることだと思います。  日本は自らの非を認めていますし、アメリカやその他の国々もそれが彼らの財産になっていることをよく知っています。 貴重なお言葉ありがとうございました。 クウェート

■ 興味深い考え方だな。 エジプト

■ ありがとう、わが友よ。 フランス

神よ、そしてファイサル氏よ、ありがとうございます。 アラーの神に誓って、これは本当に素晴らしい仕事だと断言できます。 貴方に感謝と尊敬の意を表します。 アイルランド

■ 偉大なるファイサル氏へ 苦労を厭うことなく翻訳を成し遂げられた貴方の努力と思慮深さに対し、心より感謝の意を表します。確かに、もし日本が戦争に勝利していたら、アジアは日本によって支配され、多くの人達が奴隷にされていたでしょうね。 サウジアラビア

■ ファイサルさん、翻訳お疲れ様です。 拝見したところ、いくつか気になる訳し方が目につきました。 別の単語に置き換えた方が良いと思われる箇所があったので、参考までにコメントさせていただきました。 サウジアラビア

■ re:ご丁寧なアドバイスありがとうございます。 ところで、私の翻訳は 「事実」 と 「客観性」 という二つの指針を重視しております。 歴史的な事実を知りたい視聴者にとって、翻訳者が意図的な発言の変更を加えるのは好ましいことではありません。 従って、多少不適切に思えてもなるべく事実をそのまま伝えられる表現を選んでいるのです。+2 クウェート

■ 翻訳において要旨をありのまま伝えることは非常に重要ですよね。 この動画内で貴方が視聴者に返信しているコメントの内容にもその意思が色濃く反映されています。 ご苦労なさったでしょう…心より敬服いたします。 イラク

世界一の嘘つき民族はアメリカ人だろうが…。 あいつらは自分たちにとって都合の良いことばかり主張してヒーローを気取ってやがる…。 あいつらの偽善をぶっ壊してやりてーよ。 サウジアラビア

■ 資料によれば、百万人以上ものアメリカ軍の兵士が数えきれないほどの殺戮を行ったそうです。 しかしアメリカは自らの軍事力を持続させるため、この事実を隠蔽しました。 言うまでも無く、アメリカのメディアは日本より遥かに強力ですからね。 戦争以来二度目の敗北と言えるのではないでしょうか。 クウェート

できればイラン・イラク戦争のドキュメンタリーもアップロードしてもらえませんか。 サウジアラビア

■ 素晴らしい。貴方に神のご加護があらんことを。 フィリピン

■ 日本は戦時中に一千万人もの兵力を注いで国土を失ったわけか。 サウジアラビア

■ 素晴らしい動画です。 アップロードしてくださってありがとうございました。 サウジアラビア

■ こうして愚かな首脳達によって多くの血が流れる取り返しのつかない破壊行為が行われるのですね。 戦争に勝者など存在しません。皆、敗者です。 エジプト

やっぱ日本よりアメリカの方がスゲーな。 エジプト

■ 第一次世界大戦勃発当初、日本は戦争に参加していませんでした。 1937年、東アジア(中国、ソ連、フィリピン)は日本軍から攻撃を受けます。 2年後、ヨーロッパも本格的に戦争に参加し始めます。 大戦は、1937年に日本がアジアで引き起こしたのです。 私のコメントを読んでくださってありがとうございました。 サウジアラビア

■ 今の日本はアメリカの手の中にあるけどね イエメン共和国

日本は素晴らしい国です サウジアラビア

歴史の中で最も勇敢だった人々が日本人だ サウジアラビア

■ 心の底からあなたに敬意を表します。 アラブ首長国連邦

■ 新作をお待ちしております。 アラブ首長国連邦
(一部を除きここまでプロの仕事)



今回は、同じ動画を見た海外の反応を、
違う地域の方々の視点からも見てきました。
アメリカ嫌いの方が多いようで、
あまり客観的とはいえないかもしれませんね・・・(笑)
勢いの衰える英語圏に対し、多くの若い世代を抱え、
これからの世界をけん引するとも言われるイスラム圏。
資源も豊富で、わが国のエネルギー輸入の大部分を依存しており、
日本としても何とか味方につけておきたいところですね。

さて、前回の英語版動画の海外コメントに次のような声がありました。

第二次世界大戦における二大侵略国は、ヒトラーを崇めるドイツと 「神」 を崇める日本帝国というカルト国家だった。 ニュージーランド

当時の日本兵はどのような心境で戦ったのでしょうか?
今回も、当時の戦記を基に、見てゆきたいと思います。

まずは、任務を忠実に守り、勝てない敵と分かりながらも
国と家族を守るために精一杯戦った方が多いようです。

以下、東京の街を守るために雷電で出撃、
11機対750機以上という圧倒的力の差を見せ付けられるも
果敢に戦った戦闘機乗りの武装解除での回想
月刊 今日(こんにち)の話題 とは

GHQによる日本統治時代が終了した直後から続いたシリーズもので、
全104集+特別号3集。
土曜通信社により発行。

実際に戦争に行った元兵士たちの写真や証言、
スケッチなどを基に実体験が綴られている。

戦後から現在まで、ミリタリーものは流行を繰り返しているが、
それらの先駆けとも言われる。
当時の心境などは戦地に赴いたものでないと分からず、
実体験の多くが掲載された本書は大変貴重なものである。
昭和28年発行 今日(こんにち)の話題 第1集 ~東京空戦記~ より引用
ダウンロード(jpeg.zip)
ダウンロード(pdf) (双方とも著作権切れ)
16-0016
傍示大尉は遂に腹にP五一の十三粍を受けて戦死、鎌倉に墜落した。

二番機の先任下士はP五一の一機に命中弾を与えたけれども
四機のP五一に追われ、左脚に十三粍を受けて負傷、
なおも追いすがるP五一のために
地上すれすれまで追いつめられてしまった。

そして遂に意を決して後よりP五一に追われながら
相模川の砂原に不時着して命を拾った。

その他、三機の零戦がP五一にやられたが
三人とも落下傘のために命は助かった。

全くの惨敗であった。

三百五十機のP五一、五百機あまりのB二九に対して
厚木より離陸して迎撃した戦闘機が雷電三機、
零戦八機ではどうしようもないのだ。
(中略)

誰が悪いのであろう。
私たちはやれるだけのことはやったのだ。
しかし五百機のB二九をどうすることもできなかった。
二百五十機のP五一に対してだけでもどうにもならないのだ。

突入していっても敵を墜すどころか墜されるのがせいぜいである。
それでも飛べるだけの飛行機は飛んだ。
墜されるためにでも突入してゆく外に手はなかった。

だが突入していったことによって何が残ったか。
何も残らなかった。
横浜全市が焼土と化し、厚木に残っていた
僅かばかりの使える戦闘機を殆んど壊滅させてしまったのだ。
横浜の町の煙の中に異様なにおいがした。
市民の大きな儀牲があったにちがいなかった。

(中略)

武装解除

昭和二十年八月二十二日の真昼であった。
海軍航空隊厚木基地の絡納庫の前には
第三○二海軍航空隊の飛行機が全機列線をとり、奇麗に並べてあった。

昨日までは作戦を行うとき以外には飛行場周辺の松林の中に作られた
引込線の中に草や松の枝で凝装して
敵機空襲の被害を少くするようにつとめていた飛行機であった。
整備中の飛行機もエンジンを交換すべき飛行機も、
ありとあらゆる飛行機がならんでいた。

そして整備員たちがその飛行機のプロペラを
一機一機取りはづしていった。
燃料も弾もおろしていった。
おまけに、これでもかというように、
車輪のタイヤの空気までも抜いていった。

飛びたがっている飛行機を一機づつ武装解除してゆくのである。
生きている飛行機が一機づつ殺されてゆく。

いくら多くの飛行機がならんでいても、
プロペラをとった飛行機はもはや飛行機ではない。
毎日ごうごうと爆音のひびいていた飛行場に、
今はプロペラの音一つきこえない。

真夏の太陽がギラギラと照りつけて、
飛行場の芝生も滑走路もムンとするほど焼けていた。

私は指揮所の屋上に上った。
愛機の無惨な姿を見るに忍びなかったが、
これが最後だと思うと叉見たくなったのである。

(中略)

戦果の少く、犠牲の多い戦であったが、
私たちは刀折れ矢つきるまで戦い抜いた。
私たちは感情を持たない戦う機械のようになることに努めた。
戦に勝てそうもないことはとっくの昔わかっていた。

後から後から襲って来る敵機の数、そしてその優秀な性能、
とても敵すべき相手ではなかった。

しかしわれわれは戦った。
力の限り戦い、そして次々に死んでいった。

「われわれは将棋の歩だよ」

と笑って語り、そして将棋の歩にあまんじて、
指されるところに飛んでいった。

そしてわれわれの任務であった東京の防衛はどうであったか、
すでに東京はその大部分が焼土となってしまっていた。
われわれがB二九を一機や二機おとしたと悦んでいる真下では、
数万のエ場や住宅が燃えているのである。

紅蓮の火の海、だが私たちは戦えるだけは戦ったのだ。
この上私たちに何が出来たであろう。

生き残ころうとは思わなかった。
いやとても思えなかった。

生き残ってこの戦の結果を見ようとは夢にも思っていなかった。
こんな無惨な目に会おうとは想像さえしなかったのであった。

外には誰もいない屋上には、
吹流しだけが、強い風にバタバタとはためいていた。

誰もいない指揮所の上からプロペラのはずされて行く雷電を見て
涙がポタポタと頬につたわって落ちた。

山々の緑も、紺碧の空も、厚木の基地をめぐる山川に変りはなかった。
しかし彼方、横浜が、東京が、焼土と化し、
飛行場では、飛行機の残骸が並んでいた。

そして私は今日、翼をもがれた鳥人、
操縦桿を握れぬ戦斗機乗り、私も叉一個の抜殻になっているのであった。(終)
続いては、5回にわたって500機以上からなる米海軍による魚雷と航空攻撃を多数受け
人員と弾薬が不足し極限の状態でかろうじて航行を続けている
戦艦武蔵の上曹と兵曹長の会話

昭和30年発行 今日(こんにち)の話題
第24集 戦艦武蔵の最後 ~不沈艦遂に沈む 囮艦乗員の奮闘~ より引用
ダウンロード(pdf) (双方とも著作権切れ)
16-0017
その時、まだ霧のような水煙に、艦体が包まれていた時である。
ぐわ-んという大爆音が起った。
鋼鉄の購造物が粉になって砕け散ったかと思われるような大轟音であった。

九連装の主砲射撃よりも強い爆風を五体に感じたと思った瞬間、
二、三人の兵が木の葉のように空中高く吹き飛ばされ、
左舷の海中に落ちこんだ。
手足をひろげた小さいゴム人形のようであった。
嵐に吹きまくられた木の葉のように、軽々と飛んで行った。

爆弾が、二番主砲塔の円頂に落下、直撃したのであった。
堅牢無比な砲塔は、二百五十瓩爆弾くらい平気なものであった。
落下個所は、へこむどころか、傷跡さえなく、
炸裂して花火のようにあたりに飛散したのであった。

その物凄い爆風のために、
すぐその下にいた単装機銃員が吹きとばされて、綺麗に跡形もなく、
ただ灼けた磯銃の銃身のみが主を待つものの如く、
上空を向いていた。

四散した爆風に叩きつけられた兵たちは、
甲板に、艦橋に、血へどを吐いて倒れていた。
眼の玉が飛び出している死体、手足を爆風にもぎ取られて、
胴体だけが血だるまになっているもの等、
眼も当てられぬ惨状である。

(中略)

つづいて落下した一弾は、左舷の磯銃台をすっぽり打抜き、
高角砲甲板で弾薬装填中の兵を、
一滴の血も一片の肉も残さず何れかへ連れ去り、
機銃台より二段下の弾薬供給所のアーマーで炸裂した。

厚い鋼板に囲まれた狭い部屋での炸裂は、極度に烈しいもので、
折から弾薬供給中の供給員七名を、
一瞬にして粉々にし、砕け散った肉片や血汐が、
白い壁をどす黒く染めてしまった。

はみ出した内臓や血だらけの腸の管が、
ちぎれた腕や足と共に壁に叩きつけられて、
べったりと貼りついたまま、血の雫を糸のように垂れ下げていた。

五体を備えた死体は一つもない。

みんなばらばらで、どれが誰の腕やら頭やら全然分らない。
地獄以上の血と肉片の室であった。
「左舷揚弾磯故障、全員戦死」
十四群伝令の悲痛な叫び声である。

上甲板では、必死の形相物凄く、
生存者たちは憑かれたように磯銃を射ちつづけた。
しかし、それも見る見る一人、二人と倒れて行った。

広い甲板は、、魚屋の俎板のように鮮血に彩られて行った。
黒光りしていた機銃々身は灼けて灰色になり、
尖光覆は焼けきれて、蛸の足のように曲っている。

負傷した機銃員を肩に、或いは背にして戦時治療室へ運ぶ応急員も斃れ、
その上にまた折重なって斃れる。
機銃員、応急員の栗鼠のような敏捷さも、
血のりに滑り、負傷者につまづき、機銃の火力と同犠に弱まって行った。

焼けついて動かなくなった機銃、人員が減って射てなくなった機銃、
弾薬供給が出来なくなってしまった機銃、
櫛の歯が抜けたように弾幕の目が荒くなった。

特に中部群の火力は、著しく減退してしまった。

すると、またしても魚雷命中、
両舷にほとんど同時に一発ずつ炸裂した。

ばあーっと吼えるように吹き上がった潮の滝が、
怒濤となって艦上に襲いかかり、
血塗られた甲板を洗い流した。

(中略)

言葉を交しながら、左舷に行く。
左舷でも十四群が一番損傷が少く、戦闘力も旺盛であった。
その機銃は猛然として火を吹いている。

ふと指揮官を見ると、腰から下をぐっしょり鮮血に濡らしたまま、
弾薬篭に掴まって指揮している。
それは小野寺軍次郎上曹である。機銃の先任下士官であった。
真青になった顔を歪めて大声叱呼している壮烈な姿は、
正に鬼神もかくや思うばかりである。

「先任下士、しっかりしろ、俺が代って指揮する」
「おう砲台か・・・大丈夫だ」
そういいながら、ばったり倒れた。しかしなおも起き上ろうともがく。
「休んで居れ」
私は大声で叫んだが、銃声に掻き消されたのか、彼の耳には入らぬらしい。
いや、もう聴き取ることが出来ないほど弱ったのかも知れない。

新婚三日にして、妻を郷里秋田に残してきた淋しさに、
いつも妻の写真を懐中にしていた。
「おい、砲台下士、お前もカアチヤンの写真をもっているか」
「そんなもの無いよ」
「楽しみなもんだよ。お前も早く写真を送って貰えよ」
「ババアの写真では、持ってても先任下士のように張り切れんよ」
ラバウル帰りの赭(あか)ら顔を綻ばせて、妻の話をする度に悦に入って喜んでいた。
まことに愉快な髭の先任下士官であった。
「死ぬ時はカアチャンと一緒さ」
真剣な面持でそういっていた。
今朝も写真をとり出して眺めていた。

その顔が今は苦痛にすっかり歪められている。
「こんなのがいるから滅多に死ねないよ」
そんなことをいって赭くなった顔も、今は臘(ろう)のように青白かった。
腰部に受けた貫通銃創のために、ついに再び起たなかった。
上記のような話も数多く聞きますので、
やはり家族のために戦った方々が多かったことが分かります。

また、家族だけでなく、幾多の試練を乗り越え苦難を共にした
戦友たちの為に戦った人が多かった事も無視できない事実でしょう。

上記と同じく、今日(こんにち)の話題 第24集 から引用
16-0018
枕許に供える握飯

「もう今度来たら、駄目だ」
「弾丸がないよ」
「人もいない」
自棄的な詠嘆である。疲労にぐったりした身体、空虚な瞳。
これが先程まであんなに勇敢に戦った兵とは思えない、
魂のぬけた群像であった。

「戦闘配食に就け!」

この号令に、初めて猛烈な空腹を感じた。
朝から何も食べていなかったのだ。
やっと喉を通った一枚か二枚の乾パンで、
生死を賭けた死闘をつづけてきたのである。
鍋の銀飯を眺めてびっくりした。

この激しい戦闘のさなか、よくも飯を炊いたものである。
応急員や機銃員が生命を敵前にさらして防戦に努めている時、
主計科もまたあらん限りの努力をして乗員のために炊事をしてくれたのである。
自分たちの職責を完うすべく敢闘していたのだ。

握飯にしてないのは、主計科もまた人員の損傷によって手不足であったからであろう。

だが、艦内全員分のこの飯を食べるのは、
果していま幾人いるのであろうか。
配給鍋から、各自に手づかみで食べた。
血に染まり汗と油の澄みこんだ手に握る白飯は黒く、或いは赤く汚れた。
それを一向気にもかけず、皆は黙々として貧り食べた。

さすがに綺麗好きな海軍も、もはやそんなことに構ってはおれないのだ。
何ともいえぬ美味な白飯の香り、無性に食べているうちに、
なぜか私は涙が出てならなかった。
ぽろぽろ熱い大粒の涙を流しながら、
私は子供のように貪り食べた。

懐しい米の飯、その香りは甘い郷愁を思い起させる。
そして今生きて米の飯を食べていることが、
私は胸が痛くなるほど嬉しかった。

また、こんな悲惨な状態で、餓鬼のように飯を貧っているわが身が、
いいようもなく悲しく、情けなかったのである。

みんなが、満腹になった頃、ふいに臼井兵曹が立上った。

「もういいのか」

といいながら、一わたり皆の顔を見渡すと鬼のような大きい掌を鍋の中に突込んだ。
そして残った白飯をつかむと、不器用な手付でこれを握りはじめた。

「おい、今夜の夜食か」

むっと憤ったような顔付で、しきりに握りつづける。
皆も黙って見ていた。
三つの食鍋を忽ち空にしてしまった。

「おーい、これを戦死者の枕元に供えろ」

と叫ぶと、自分でも両手に一つずつ持ってゆっくりと戦死者の寝ているところへ行った。
頭の傍に供えると大きい手で合掌した。

鬼兵曹と謳われた臼井敬のこの優しい心根に
「おい夜食か」 といった長田兵曹が、
突然、わ-つと声を上げて泣き出した。
「悪かった。許してくれ」
泣きながら叫ぶ長田兵曹の切ない声につられて一同も眼に涙を浮べた。
合掌していた鬼のような臼井兵曹も、長田の声に刺戟されて、
戦死者に頭を下げて泣いていた。
一同は泣きじゃくりながら、汚れた手に、汚れた握飯を各自に持って、
戦死者の枕元に供えてまわった。

「おーい、残った飯を握って、戦死者に供えろ」
悲しさに胸が潰れて、堪らなくなった私は各磯銃台を怒鳴って廻った。

こうして、数分の後には、戦死者の枕頭に無数に握飯が供えられ、
線香の代りに煙草の煙がゆらいでいた。

そして残り少なくなったサイダーが、戦死者の乾き切った唇を湿ほして行った。
そして一人一人に、煙りを供え、水を濺ぎながら、
「許してくれ、何もしてやることが出来なかったのだ」
「これで我慢してくれな」

一同の眼は赤く泣き脹れていた。
俺たちだけは生きてしまった。
死ぬのは皆一緒だった筈なのに・・・。
極限の状況で戦い抜いた日本の兵士たちが実に人間味にあふれ、
海外コメントにあるような盲信的カルト信者では
なかった事がうかがえるのではないでしょうか。

しかしながら、当時の日本兵が天皇陛下を信じていなかったわけではありません。
当時の人々が最後の希望として敬愛し、
心のよりどころであったのは間違いなかったようです。


今年(2015年)4月に天皇、皇后両陛下が訪問されたパラオ共和国ペリリュー島。

以下は戦時中、この島へ友軍を助けるため船に物資を積み援護に向かうも、
高熱を発症し島に上陸できなかった元日本兵・尾池さんの戦記

文藝春秋 2015年5月号 「ペリリュー生残の記」 より引用
四月八、九日の日程で、天皇、皇后両陛下が訪問されたパラオ共和国。
同国の南部に位置するペリリュー島は、
太平洋戦争時に日米双方で約一万二千人が
戦死した悲劇の地として歴史に名を刻む。

この戦闘に直接的に参加し、戦後に帰還できた日本側将兵の数は、
僅か三十四名。

(中略)

九月二十二日、パラオ本島の集団司令部は、
劣勢に喘ぐペリリュー島への「逆上陸部隊」の派遣を決定。

第十五連隊第二大隊に属する約八百四十名が、
パラオ本島からペリリュー部隊の援護に向かうこととなった。
大隊長は飯田義栄少佐である。

友軍を見殺しにするなというわけですね。
夜、船に乗って斬り込みに行くことになりました。

(中略)

ところがですよ、実はその時、私は四十二、三度の高熱を出して
フラフラの状態だったのです。
その様子に気付いた中隊長の桑原甚平中尉が、
「尾池はどうしたんだ?」 と准尉に聞きました。、

准尉は「尾池は実は二、三日前から高熱を発して、この通りなんです」 と。
すると桑原中隊長が
「よし、わかった。降ろせ・船から降ろして入院させい」
と言いました。

私を降ろしてから、船はペリリュー島に向かいました。
私は涙を流して 「行ってこいよ」 と見送りました。

『俺は降ろされて、申し訳ねえことをしたなあ。俺はもう落伍者だ』
なんて思ったもんでしたよ。
『俺は屑になっちゃったわい』 と。

それから、私は陸軍病院に入れられました。
それで私は生きたんです。

その後、栗原中尉の指揮する第三艦隊(二百二十三名)はペリリュー島を目指すが、
島を目前にして次々と座礁、米艦船からの掃射に晒され珊瑚の海は亡骸で埋まる。
上陸できた兵士たちもほとんどが戦死したとされる。


今でもペリリュー島へ行けなかったことを恥に思っています。
死んだ人たちに対して申し訳が立たないって。

ペリリュー島のことを、一日も忘れたことがない。
夜になるとペリリュー島が出てくる。
ペリリュー島の兵隊たちの顔が出てくるんです。
兵隊は一生懸命よくやったんだ。
あの島に残されている日本の大砲は、
まだ空を向いて睨んでますよ。
天皇陛下がパラオに行くなんて、
英霊が涙を流して喜びますよ。

あの悲惨な最期を遂げた戦友たちが、
『よく来てくれた』 と迎えてくれるだろうと思います。
『日本のために死んだ甲斐があったわい』 と、
こう思うんじゃないか。

鳴呼、ペリリュー島の英霊がどれほど喜ぶかなあ。

日本政府は毎年靖国神社を訪問して第二次世界大戦の戦争犯罪に加担した兵士たちを公式に追悼している。
という海外コメントもありましたが、
命を懸けて国を守った者へ対する追悼はどこの国でも行っていることであり、
追悼の意を表明しない大統領や首相はどこの国にもいません。
多くの国は国歌を流して公式に感謝と敬意の気持ちを込めて追悼するものです。

これをおろそかにすると命を懸けて国を守る人がいなくなってしまいます。
国家の基幹を揺るがすほどの大切なことなんですね。

任務先でも、戦いに散った者の遺骨を守るのは、
生きている者の最大限の務めでした。

以下、今日の話題 第35集 ~十八軍密林戦記~ より引用
ダウンロード(pdf) (双方とも著作権切れ)
16-0019
戦友の小指を焼く

私たちが到着した四、五日後から、続々と転進部隊が集った。
ポスマタを通過する者、露営地を定めるもの、
自分の部隊を探す者・・・。

いずれも衰弱しボロボロの服をまとい、素足の者さえいる。
まるで乞食の大群のようであった。

私たちは、マダンからの転進であり、
しかも途中、中隊の配備地があったので、
多少なりとも糧食の補給がついたけれど、
これらの人達は、ラエ、サラモア方面から、
中にはモレスビー攻略以来の人々もあり、
転戦また転戦を重ねて来た者が大多数だった。

夜になると、あちこちで、ドカン、ドカンと炸裂音がした。
翌朝、音のした方を探すと
木蔭や、椰子の根方や、海岸の岩蔭などに自決体があった。

これらは、ハンサヘ、ハンサヘと一縷の望みを抱いて、
飢え、疲れ果てて辿り着いたものの、
ハンサも亦焦土と化し、その上、食糧補給の術もなく、
精根尽き果てての自決であった。

私たちは、転進に際し、全員手榴弾を一個ずつ必ず腰につけていた。
これは、動けなくなった時、自決するためのものであった。

ある夜のことだった。
用便のため小屋を出ると、ゴム林の奥にチラチラと火が見えた。
敵の魚雷艇に発見されると困る。注意しようと近寄って行った。

二人の兵が、竃形に並べた石の上に、
小さなトタンの破片をのせて火を燃やしている。
その前に蝋燭が立っている。炊事ではない。

「君たち、何をしているんだ」

悄然としていた兵たちが振り向いた。

「戦友の遺骨をとっているのです」

彼等は、戦友の小指を、
しかも第一関節から上だけを携えて来て、
火葬にしているのであった。

トタンは、火を覆いかくすためのものだった。
蝋燭は線香の代りらしい。

「御苦労」

私はこみ上げて来るものを押えて云った。

遺骨は初め全身であったが、戦況の悪化につれて右片腕となり、
前膊部となり、母指となり、小指となり、
遂にこの頃は小指の第一関節になったのだ。

それも、まだ焼いている間はよかった。
次第に焼くことも出来ず、飯盒に入れて持ち歩き、
腐敗し切ったところで米をとぐように水洗いして骨を取るようになった。
最後には、それすら出来なくなった。

また、遺骨は、指揮官と行動出来る者が持つのが掟だった。
遺骨は、指揮官として生命にかけて守らねばならないものだったからであり、
生きている者の最大の義務であった。
そして、全体のごく一部とはいえ、
勇敢に戦った人間に対して敵味方の区別なく
尊敬の念を抱いていた様子が見てとれる部分もあります。

以下、重巡洋艦・最上がラバウルでアメリカ軍機動部隊の攻撃を受けた際の戦記
昭和37年発行 今日(こんにち)の話題 第103集
~悲運の軍艦最上 海戦毎に大破、力戦遂に力尽く~ より引用
ダウンロード(pdf) (双方とも著作権切れ)
16-0020
すき間のないわが弾幕の間を潜り抜けた敵の爆撃機は、
勇敢に最上に向って突進して一弾を投下したが、
幸にして命中せずへ却ってわが機銃の掃射を浴びて撃墜され、
左舷側至近の所で丁度焼火箸を水に突込むときのような
「ジューッ」と云う音と共に海中に沈んで行った。

距離が近かったのでその機の若い搭乗員が平然として操縦桿を握りつつ
愛機と共に海中に突入して行った姿は今もって深く印象に残っている。

戦争は個人対個人の憎しみではない。
いま目の前に、国のため勇ましく散華して行った若人に対し、
戦闘の最中にも一瞬敬虐な気持ちとなって冥福を祈った。
生命であれば敵ですら敬意を表すこれらの行動は、
海外でも 「武士道」 と捉えられ驚嘆をもって紹介されるようです。

1945年(昭和20年)4月12日にルーズベルト米大統領が急死、
就任間もない鈴木貫太郎首相がアメリカ国民に弔意を表したことに対し、
アメリカに亡命したドイツ人作家・トーマス・マンは次のように述べています。
ドイツではみな万歳、万歳と叫んでいるのに、
日本の首相は敵の大統領の死を悼む弔電を送ってきた。
やはり日本はサムライの国だ。


日本とアメリカ、双方の戦いは多大な犠牲を伴いつつも幕を閉じましたが、
開戦前に何とか戦争を回避しようと考える人々がいました。
当時の日本にも、そしてアメリカにも。

今回ご紹介するのは、戦争を回避しようとアメリカ側へ働きかけた
ある一人のアメリカ人のお話です。
歴史秘話ヒストリア もうひとつの終戦 日本を愛した外交官グルーの闘い

以下、ごく一部のみ要約

駐日大使 ジョセフ・グルー
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戦争が始まるおよそ10年前に来日した彼は、
数多くの出会いを通して日本を深く知ることになります。

その後、時代に翻弄されるなか、
どうにかして日米の開戦を避けようと最後まで奮闘しますが、
もはや戦争が避けられない運命にあった日米両国は遂に開戦
グルーは無念の想いを胸に10年間過ごした日本を去る事となります。

アメリカへ帰国したグルーは、日本で過ごした経験を元に
「日本は話せば分かる共存可能な国である」 と各方面に働きかけました。

しかし、
「戦時中に場違いな発言」
「天皇と取引している」
などと世論から反発を受け、
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国務省の指示で外交の表舞台から外されてしまいます。

その後ルーズベルト大統領が急死、
後任のトルーマン大統領は外交経験がほとんどなく
日本の知識もなかったことから日本通であったグルーに信頼を寄せます。

こうして、グルーは再び日米の架け橋となる表舞台に戻ってきました。

その頃、日本ではグルーの旧友である鈴木貫太郎が首相に就任。
かつての2人は映画を観に行くほどの旧知の仲。

グルーはアメリカ本国に働きかけ、戦争終結のために行動を開始。
大統領を1時間にもわたり説得し、大統領をも動かします。
グルーのアイデアを基に書いたものが後のポツダム宣言の草稿でした。

「これで戦争を終結できる」
そう考えていたグルーでしたが、
ポツダムへ出発する直前に外交官のトップを替えられてしまいます。

グルーが外された後に日本側へ送られた文書には
彼が提案した文言のうち、最も重要な部分である
「天皇の地位の保証」 が削られていました。
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その後もたび重なる困難を乗り越え
希望を諦めず、最後まで行動を続けたグルー。
そして迎えた終戦の日。
昭和20年8月15日、鈴木貫太郎首相は首相を辞職。
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同じ日、グルーもまた国務省に辞表を提出。
40年間以上務めた公職に別れを告げます。

国務省を去ったグルーの元に、
最高司令官マッカーサーから顧問の誘いがきていました。
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しかし、これをグルーはきっぱりと断ります。

「私は10年もの間、日本で暮らし、たくさんの友人がいます。
そこに、支配者の顔をして行きたいとは思いません」

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グルーは終戦後、一度も日本を訪れる事なく この世を去ります。
昭和40年(1965年) 5月25日 グルー永眠(享年84歳)

(詳しくは動画で)

今回はアメリカ側の視点で作られたプロパガンダ動画の海外反応を
前編・後編を通して見てきました。
その結果分かった事と言えば、やはり
「日本はシンフォ ギア スロット 朝一ルーレット戦に弱い」 ということでした。

日本は戦後、GHQによる統治時代を経て様々な事を忘れさせられました。
この国が、先人たちにどのようにして守られてきたのか、も。

かつて、この国を守るために命を懸けた人々がいた・・・。
彼らは、何の犠牲もなく平和が空から降ってくるとは思っていませんでした。

現在、絶え間なく変化を続ける海外の脅威に、
日本は対応できるのでしょうか?
先人たちはどういった気持ちを胸に戦地へ赴いたのか・・・。

戦後70年を迎えたこの国は、戦勝国によって隠された歴史を
もっと知らなければならない時期に来ているのかもしれません。